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名護屋城は文禄元年(1592年)朝鮮出兵の拠点として豊臣秀吉が 1592年(文禄元年)に築城しこの名護屋城の地に、 徳川家康をはじめとする全国の大名が率いる15万ともいわれる軍勢と 様々な人々が交流する巨大都市が出現しました。 名護屋城は秀吉の死と共に7年間の短い期間で廃城となり幻の都市となりましたが、 一方では博多の豪商による南蛮商業交流や、能、浄瑠璃、茶の湯、 唐津焼などによる安土桃山文化、また穴太衆(あのうしゅう)の 石工技術などを唐津の地に根付かせました。
ガッチャンさん コメントありがとうございます(^○^) 家内と一緒にデイキャンプがてら行ってまいりました。また、お褒めの言葉、感極まります。 このショットは携帯ショットですが、1番困ったのが白藤と唐津城との右左奥行きのバランスの違いです。良く見て頂いたら、お分かりになると思いますが、構図が取りにくいのです。 結果、城を水平にしましたが…。 こういう時、困りますよね⊂((・x・))⊃
2024年04月29日15時26分
まねきねこさん お久しぶりです。 こちらこそ、ご訪問とコメント、誠にありがとうございました。 また、お褒めの言葉、恐縮です。 iPhoneの切撮りですが、見ての通り下から煽った写真になります。最近のiPhoneは本当に良く写ります。若い方達がiPhoneで撮影するスタイルで一眼レフやミラーレスにいかない理由も分かる気がします。
2024年05月07日09時52分
カメパパ
続き… 秀吉の側近であった初代藩主寺沢志摩守広高は唐津城下の河口大改造、 新田開発のため東にのびる砂州に黒松の植林を行い(虹ノ松原)、 漁業では紀州から漁夫を雇い入れ捕鯨を導入しました。 城は本丸、二の丸、三の丸、外曲輪(そとくるわ)にわり、 外曲輪は外堀で守られ、その外に東寺町、西寺町の町割りを行いました。 唐津城は、豊臣秀吉の家臣:寺沢志摩守広高が 慶長7年(1602年)から7か年の歳月を費やして完成しました。築城には名護屋城の遺材を 活用したと伝えられています。城を中心とした砂浜と松原が翼を広げた鶴のように見えることから、別名「舞鶴城」とも呼ばれています。 その城主には寺沢、大久保、松平、土井、水野、小笠原の各大名が任ぜられています。明治10年に本丸跡は舞鶴公園となり、唐津城築城当初は、天守閣はありませんでしたが、昭和4年に文化観光施設として天守閣が建てられました。天守閣内は郷土博物館になっており、唐津藩の資料や唐津焼などが展示され、唐津の歴史に触れることができます。また、舞鶴公園では3月下旬には満開の「桜」4月下旬から5月上旬には 魅力あふれる香りを感じる「藤」が満開となり、 天守閣からは玄海灘や壱岐、虹ノ松原の雄大な景観、 松浦橋と城下町唐津の風景を見ることができます。
2024年04月29日09時39分